空の彼方へ


メキシコに行くことは、ある意味では一つの「夢」だった。大学入学後、スペイン語を日常的に話す国で勉強してみたいと思うようになったが、幾つかのオプションのうちでメキシコへのこの留学は、最も条件的にも優れていて、時期的に最も良い大学二年時での受験&大学三年時での渡墨が叶えば、といつからか夢想するようになっていた。私の拙いスペイン語では受かるわけがないと思っていたのだが、幾つもの偶然に助けられ、願っていた通り一年間の留学という機会を得た。


思い返してみれば、スペイン語力の不足以外にも幾つか、問題はあった。寂しがり屋の父に、受験したいということを伝えなければならなかったこと(伝えた後は、勿論最大限のサポートをしてくれた)。東北の片田舎の、未だに様々な慣習に囚われた地域の出ということも関係してか、海外留学というものに対し、身内(特に、寂しがり屋の父の血を(私と同じ様に)引く、兄)から若干の反対意見があったこと。皆は半ば冗談で言っていたのかもしれないが、だが彼等の言葉の端々から伺えるものを、全く無視することはできなかった。


実際にメキシコに行ってからも、到着当初の体調不良、兄の結婚、姪の誕生、従妹の大学入試等、離れて暮らすということに付随する様々な心配事をお互いが抱えていた様に思う。申し訳ないという気持ちは常に抱えていた。家族もまたそうだったであろう。


そういった(そして上に書き留めていない数々の細かな問題もまた然り)多くの犠牲の上に成り立ったのが、このメキシコ留学であった。成否という、単純な二元論に帰してしまうと、色々な言い方ができるのではないかと思う。学業という面では、当初誇大妄想的に考えていたのとは程遠い出来だった。しかし、それ以外のファクターで計れば、この留学が持っていた意味は大きい。


機上で、この用に過去形や(「来る」ではなく)「行く」という、メキシコに「対する」方向性を持った言葉で語るしかない今の情況は、やはりどこか残念である。しかし、今日からはメキシコから遠く離れた日本で、「メキシコ」を想い続けていたい。


帰国日の様子を少しだけ書いておきたい。早朝、総重量百十キロにも及ぶ荷物を同居人のYさんに手伝ってもらいながらタクシーに詰め、空港まで向かった。重量オーバーは分りきったことであったし、またそれ以外にも追加の荷物を頼んだので、約3800ペソ(≒三万八千円)をユナイデットのカウンターで払い、Yさんと別れてイミグレーションを通った。ここまでは完璧だったが、その後、ゲート番号が分らず(チケットには書いてなかった)、何人もの職員に聞いたのだが、皆言ってることがまちまちで、搭乗時間ギリギリに(慣れていないこともあり、文字通り空港内を右往左往していたので)汗だくのままサンフランシスコ行きへと飛び乗った(とは言え、これはフライト案内のスクリーンで確認しなかった(そして早朝故に頭が回らなかった)私が悪い)。一息ついたのも束の間、間もなく後ろの席の子供が騒ぎだし、親も注意しないまま、舌打ちと「シーッ」という「静かにしろ」という意味の合図が飛び交う殺伐とした機内で、流れる汗を拭いながら離陸の瞬間を待っていた*1。離陸後も「騒ぎ」は止まなかったが、朝食を取った後に念のため飲んだ酔い止めが効いたのか、すぐに眠りに落ち、目覚めた頃には既にフライトアテンダントの方々がアメリカ入国時に提出するカードを配り始めていた。サンフランシスコに降り立ち、アメリカ入国を済ませたのはよかったが、元々トランジットの時間が一時間半しかなく、しかも係員に荷物のピックアップと国際線ターミナルのことを聞いたら、成田行きなら急ぎなさいと急かされ、ここでも汗だくにならなければならなかった。荷物を預けて手荷物検査を終え、ゲートまで行ってみると、まだまだ時間に余裕があったので、ホッと胸を撫で下ろしている時に、ついさっきまで手に持っていた機内での防寒対策のためのカーディガン(しかも「モンタージュ」のスウェット地のもので、結構気に入っていた)がなくなっていることに気付いた。一連のドタバタの中でどこかに置き忘れた様だった。探しに戻れなくもなかったが、大事を取ってそちらの方を諦めた。幸いお土産が詰まった手荷物のボストン(これが十キロ近くあり、どんどん私の体力を奪っていった)にナイロンのジャケットが入っていたので、代用はできた。予定時間を十分ほど繰り上げて*2サンフランシスコを飛び立った直後に強烈な眠気に襲われ、即入眠、そのために食事は抜きだった。今は若干の空腹と戦いながらこれを書いて気を紛らわせている。面白い映画でもあればいいのだが、洋モノのドンパチ系という、かなり嫌いな分野のものが二本も立て続けに流れていて、ゲンナリ、というカンジである。


最終日までいつもの様にドタバタしていたが、結局は足を動かし、汗を流して、何とか乗り切れた。これは、今回の留学を象徴している様でもあった。思い通りに行かないことの方が多い中で、それでも自らが動けば何とか状況を打破できる、これこそがメキシコで学んだ基本的な生活の知恵であった。手荷物のボストンとパソコンが入ったバックの計十五キロ程の荷物を抱えていたために、今日は走り回った後に肩や腰の痛みが出てきて、ちょっと辛いのだが笑。成田に付けば、カートもあるし重い荷物はそのまま送ることになるし、何より親が待っていてくれるので、幾分楽にはなると思うが。


こうして、このメキシコ留学という「夢」は、こうして終わりつつあるのだが、しかし一年にも及んだ「夢」は、更なる大きな(そして数多くの)「夢」を私に与えてくれた。これからは、それらの「夢」に向かい、突き進んで行きたい。


そんな、終わりと始まりよいうアンビバレントな気持ちを抱えたまま、サンフランシスコを発ったユナイデット機は、成田に向けて太平洋を横断している。日本はもう、すぐそこだ。

*1:メキシコでは子供が騒いでも「放置」しておく親が結構いる。これを家族への愛(可愛いがために怒らない)という人が結構いるが、しかしそれが間違いであることはわざわざ言うまでもないだろう。勿論子供が騒ぎ出すというのはある意味では不可抗力であり、責任は親にあると私は考える。何故かこういう親子が、チワワ鉄道や飛行機に乗れる程の中〜上流階層に多い様に思うのは気のせいだろうか。いずれにしろ、そういう風に育てられた子供達が不憫でならない

*2:メキシコを発つ時は四十分も遅れたことを考えると、改めて時間の正確性に対する心構えの違いが分り、メキシコのそれに慣れ親しんでいた私は、その辺を変えて(と言うよりも戻して)いかなければ、と思ったのである。