週記、あるいは自己肯定と友人へのエール


前回の更新からだいぶ間が空いてしまった。別に体調が悪かったとか、そういうわけではない*1。かと言って、この間ずっと図書館に閉じこもって…という生活を送っていたわけでもない。確かに先週は図書館で本のコピー(帰国時に「輸入」する用のもので、恐らく数十冊になる見込み…泣)を取りまくっていて、まだまだコピーしなければならないものは(言葉の正確な意味で!)山程あるのだが。これまで通り適度に学校に行き、適度に遊び*2、という状態だった。気分転換に買い物に行き*3、新しいスニーカー(前回は偽物のアディダスだったが笑、今度は本物のリーボックをゲットした)等を買った。そこそこ楽しい、普段と変らぬ日々である。


強いて言えば、何だかバイオリズムというか、心身ともに「ノリ」が悪い。これは今に始まったことではなく、年に数回こういう時期があるので、まぁ仕方がないと思っているのだが(しかもふとしたキッカケで元の状態に戻るのだから不思議である)、この不調期には何故か決まって将来のことと昔のことを交互に考えてしまう。それも、先が見えない将来に悲観し、過去のことに関しては(自分の杓子定規で見て)今よりもずっと輝かしかった過去から差し引いた現状を嘆く、といった具合に、である。これは、高校時代からの(実は中学から一緒、しかも中三の時にはクラスメイトの、って書けば分かる人には分かるかな>Rさん笑)友人も似た様な状況にあるようだ(彼女のblogを読んだ限りでの判断なので、間違っている可能性は十二分にあるのだが)。人間の意識の中では、「今」という時間は数秒後にはもう「過去」となってしまう、というどこかの科学者の話を大昔にどこかで聞いたが、それに基づけば、私達はやってくる時間の塊を「過去」という鋳型に放り込みながら、膨大な「過去」を量産し、そしてそれを背負い込みながら、日々暮らしているということになるのだろう。磨り減っていく未来と、積み上がる過去。人間の「生」というものは、その未来と過去の狭間で繰り広げられているものなのだろう。


私達はその中で、数々の他者と出会う。その他者というものは実体のある人間だけではなく、自分の中に潜む数々の他者であったり、想像上の他者であったりと、枚挙に暇がない。それらに振り回され、時には自分自身ですら「他者」の様に思うことだって(少なくとも私は、ごくたまにだが)ある。過去の自分がまるで他者に思えることもある。人は誰しも己の中に他者を抱えているというフレーズは、哲学や思想といった分野では何度も繰り返されてきたものではあるが、しかしこうして20年(とちょっと)も私という一人の人間の一つの「生」を傍らで眺めていると、そのありきたりのフレーズが身に染みて分かる様な気がする。


細見和之氏は著書『アイデンティティ/他者性』(岩波書店)の冒頭でアイデンティティを波のイメージで捉えていて、曰く、アイデンティティとは海水にも大気にも、あるいはその他の第三の物質にも還元できない波頭の様な、「たがいに他者である大気と水の、そのつどの特異的な関係」(前掲書pp鄴-鄽)である。暇つぶしのはずが、この一節がとても腑に落ちたために半分まで一気に読んでしまったのだが(「しまった」というのは、もっと研究に直接関係する本を読め、ということ笑、しかもそれから一週間程経ったがまだ読み進めていない笑)、最近のこの「精神の低空飛行」状況の中、「自己」や「他者」といったものにボンヤリとした思いを巡らす上で、この「波」のイメージは非常に示唆的だった。


東北の片田舎に生まれ、中学まで「仮面良い子」をしていた私だが、そんな己の欺瞞に嫌気がさして選んだ道は、超がいくつかつく程リベラルな新設校だった。そこで、私は色々なものを見ることができた。輝かしいものから薄汚れたものまで、バカバカしいものからくだらないものまで(あ、同義語だ笑)、眼前に表れたものは本当に多種多様だった。そこで私(だけではなく他の多くの人)は、子供ながらに多くのことを考え、「自己」に対してある程度真摯に向き合い、良いところも悪いところも含めた一個の人間として自分自身を見ていたのだと思う。ぼんやりとだが、それぞれが唯一無二のアイデンティティを確立できていた様な気がする。そして、リベラルな雰囲気が、その内面を行動に結びつけることを助長した(のだと思う)。繰り返すが、私だけがそうだったのではなく、大半の人が同じ道を辿っていたのである(多分)。


同級生の大半(と言っても、未だに会って話す人の中での大半なのだが)が口を揃えて言うのが、大学に入ってから、この高校時代の環境に比べて大学のそれがいかにくだらないものか、ということである。まるで大学から高校に進んだみたい、という具合に。これは大学に問題があるとか(確かに沢山ある)、その前段階の受験が悪いとか(確かに悪い部分は多い)、そういう定型句に帰させることもできなくはないが、恐らく皆はそういうことを口にしながら、そのシステムに乗っかかることで安定を保っている己をどこか否定しているのだと思う。もっと言えば、大学という社会の一つのシステム自体が有する弊害に加担しつつも、そのレールから脱することはできない、各人の弱さを見ているのだろう(違ってたらごめんなさい>友人諸氏)。勿論大学というステップが、各々の将来にとって決定的な意味を持つことは自明である。しかし、それが分かっているからこそ、その前段階よりも充実「していない」大学での日々が嘆かわしい。私を始めとする同級生達が過去を引き合いに出して現在を(ためらいつつも)批判する際に皆が考えているのは、つまるところこういうことなのだと思う*4


しかし、いくら今の自分と過去の自分に大きなギャップがあったとしても、過去の自分も今の自分も「自分」であることには変わりない。飛沫を上げる波もあれば、ただ打ち寄せては帰って行く波もあるのである。弱さも強さも、正義も悪も、全部自分なのだ。確かに変ってしまったものは数多くあるかもしれない。ただ、変わってしまったものを数え上げるのが終わったら、変わっていないものにも同様な注意を向けてみるべきなのではないか。変わっていないものは、最低一つは見つかるはずだ。それは、その行為主体とでも言える、私達自身、である。


勿論その主体自身が脅かされているということは知っている(前回書いた通り、政治学の授業で発表したのはミルズだし、内田氏のファン(自称)だったら構造主義について氏が書かれた本くらいは読んでいるので)。また、過去を考えると記憶という厄介な問題が出てきて、岡真理氏が著書『記憶』(岩波書店*5で書いている、記憶の暴力性という問題も確かにある。が、それでも個人という実体性は変わらないのではないか。何よりも人の「生」を考えるべき、開発学の一学徒(と名乗るには不勉強も甚だしいのだが…)として、私は安直ながらそう考える。だからこそ最近の私は、過去や未来に押しつぶされそうになっても、「それでも私は私で、どこまで行っても私でしかないんだ」という暗示にも似た危うい思いを抱きながら、何とか日々を遣り過ごしている。眼前に広がる膨大な時間という物質を、「私のものでしかない鋳型」に放り込みながら。


このエントリーは半ば現在の自己肯定に走ったものであることは認めるが笑、表題にある通り、前述の友人へのささやかなエールにでもなれば、と思い書いた。不慣れなことをしたせいかいつも以上に粗も目立つが、それでも、この殴り書きに近い拙文が、唯一無二の私から同様に唯一無二である友人への励ましにでもなれば、と思っている。以下、ちょっとだけ私信――Rさん、きっとRさんが今も昔もRさんのままであるからこそ、今そうやって思い悩み、深く落ち込んでいるのだと思う。それでも、(ちょっと循環論法と思うかもしれないけど)それはRさんがRさんである証拠なんじゃないかな。他の誰かが取って代わることのできない、Rさん自信の「生」を他でもないRさんが必死になって生きていること、その証拠なんでしょう。速過ぎる時の流れの中、その流れに乗って過去を鋳る作業は中々辛いものだけど、それでも個人的にはすごく、Rさんが模っていく過去を定期的に見せ付けて欲しい、と思っています。言葉の純粋な意味において、Rさんという一人の人間の、数多くのファンの一人として。


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以下、新規エントリーとして書くまでもない、とりとめもない追記。以前コメント欄に書いた、Hi5というSNSソーシャルネットワーキングサービス)の件だが、犯人(?)はCOLMEXで以前同じ授業を取っていたメキシコ人だということが先日判明した。彼の名前を間違って覚えていたのがそもそもの原因だったのだが、堅物ぞろいのCOLMEXでもSNSがそこそこ流行っているというのは以外だった。初の海外系SNSでちょっと舞い上がっていたが笑、GREEMIXIも自分のプロフを充実させたりはせずに友人の日記の更新具合をチェックする程度にしか利用していない私なので(あとはオセロかな笑>Y.Sさん)、Hi5の行く末も既に見えているのだが笑。


わけもなく低調期だった最近だが、自分としてはまぁそのうちよくなるだろうと踏んでいる。回復の糸口を見出そうとだらだらと文章を書いていたら先程連絡があって、明日は某日本食レストランへカラオケをしに行くことになったのだが、自称カラオケキングの私としてはもしかしてこれが一番の気分転換かもしれない笑。カリンバ、レイク、ディエゴ・トーレス、タティアーナ・フェッロといった、ミーハーどころのラテンヒット曲から邦楽(カラオケキング故に全般OK笑)、英米のロックまで、幅広くカヴァーする私なので、明日はマイクを離さないつもりである笑。


アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)

アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)


記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

*1:大○漢方胃腸薬のおかげです、別に身内に大正の関係者がいるからではないが笑、胃腸機能の低下時にはやっぱりこれが一番

*2:大詰めを迎えたサッカーのメキシコリーグ・決勝トーナメントは結構見に行っている。公にはpumasのファンである私は実は隠れcruz azulファンでもあり(矛盾だが笑)、中でもアルゼンチン代表フォワードのセサル・”チェリート”・デルガドが好きなのだが、残念ながら先日の準決勝(準決勝第一試合は生で観戦!)でamericaという日本のプロ野球で言ったら巨人の様なチームに負けてしまった。americaはmariconesなので笑あまり好きではないので、決勝は対戦相手のtecosを応援するつもりでいる(批判精神、と言うよりただのアンチ精神笑)。チケットも友人のおかげで入手できた(見ていないとは思いますが、いつもいつもありがとうございます>Hさん)

*3:知っている人は知っていると思うが、買い物に関しては有益情報がある。この時に行ったのは、メキシコシティ郊外のLas plazas outletという、その名の通りのアウトレットショップである。ナイキやアディダス等のスポーツ商品から、ckやtommyらのブランド(ただしごく一部で、しかも予算的に絶対買えないのが分かっていたので私は覗いてこなかった笑)まで、幅広く扱っている。割引率もそこそこ高く、ナイキのスニーカー(ダンク、マックス1、フォース等)も定価よりは全然安くなっていた(がまだ高かった泣)。中でもアディダスショップではプロモーションとしてサッカー日本代表のオフィシャルのユニフォームが150ペソ(1500円)で売っていた(日本を安売りしやがってと思いつつも笑、すかさず入手した)。このアウトレットへの行き方は、メトロ・Observatorioの脇の西ターミナルからOcoyoacac行きのバスに乗り(24ペソ)、一時間ほど行ったところで降りるとある(分かりづらいので予めそこで降ろしてくれと頼んでおくと良い)。帰りはアウトレットの前を走るバスに乗ってSan Mateo Atencoというターミナルまで行き(5ペソ、これも分かりづらいのでターミナルで降ろしてもらう様に頼んでおくと良い)、そこから10分おきに出ているObservatorio行きのバス(24ペソ)に乗ればメキシコシティに着く。と、たまたまポケットから買い物に行った際のバスのチケットが出てきたので、貧乏くさい値段ながら併記してみた笑。ちなみにアウトレットからメキシコシティまでタクシーで帰ると200ペソ程だったが、私とその時一緒に行った方は既に所持金がピンチだったので笑、貧乏ルートで帰ってきたのであった。

*4:高校から大学への進学という例を出したのは、ただそれが私や友人達とバックグラウンドを共有していなくとも分かりやすいだろうという考えからであって、それ以上の意味はない。また、私達のためらいのもとであるこのいわば「共犯意識」とでも言うものも、何も私が今初めて言ったことではなく、アンテナにも入っている内田樹氏がかつて著書で仰っていた「とほほ」という感覚から着想を得たものだ(「ためらい」という言葉も拝借笑)。

*5:「思考のフロンティア」シリーズは、一時期敬遠していたが実際手にしてみるととても面白いシリーズだと気付き、数冊程読んだ。ただ、初期のものに比べ最近のものはあまり良くない、という話をどこかで聞いたが。