chino,chino,chino


大抵日曜は昼まで寝ているのだが、今日は(明日の授業での発表に備えるためにも)ちょっと早起きし、午前中のうちに週末の一仕事・食材の買い出しに、近所のスーパー・Superama(スペラマ)へと出かけた。このスーパーは米資本・WAL-MART(ウォル・マート)系で、全国的に展開しているのだが、何故か私が行くコヨアカン店にはカレーのルーや日本米等が置いてあり、その点がとても便利なのでよく利用している。いつもの様に野菜を物色し、明日の発表を終えた後のご褒美(笑)としてステーキ(一切れ約百円)を買いに精肉コーナーへ向かった。そこで働いているおじさんが私を見て開口一番、"Que' te doy, chino?"(「何にする、チーノ(中国人、の意味)」)。この「チーノ問題」については散々触れているので今更説明する必要もないとは思うが、蛇足ながら簡単に説明すると、チーノとは中国人を意味するが、スペイン語圏では広くアジア人の総称として使われ、時に(というか殆どの場合)差別的な意味を含む。このおじさんがそういう差別的な意味で言ったのかどうかは分からないが、このスーパーでは以前にも警備員に後ろから「チー、チー」とからかわれたことがあったので、ったくもう、という思いでさっさと買い物を済ませる。


最近「おばあちゃんの今日」さんのところの「メキシコのサービス業のなってなさ」、というエントリーを見ていたためか、尚更カチンときたのかもしれない。メキシコではこういうことがよくある。お客様は神様です、という風に大多数が考えている国は世界広しと言えども恐らく日本及びその周辺国だけで、欧米では結構客と従業員の関係はフランクである。何もこれが嫌だと言っている訳ではないのだが、しかし客に向かって侮辱語を吐く、というのはやはり普通ではない。


しかし、前回のエントリーの様に嘆いてばかりではなくたまには建設的に考えてみたいのだが、こういう輩にはどう対処していけば良いのだろうか。勿論反論するのもアリだと思う(私もよく"No soy chino"「中国人じゃないって」と言う)が、最近は「言っていることは理解していると示しながら無視をする」という方法こそかなり強烈なのではないか、と思っている。何もこれは私が考え出したものではない。個人的に20世紀最高の市民運動アメリカの公民権運動だったと思っているのだが、前述の方法はこの運動(一応黒人主体の運動を念頭に置いている)が採った方法にある意味では通じる。50〜60年代のアメリカの黒人は、彼等が入店することを拒まれた店の前に座り込み、人種毎に座席が定められていたバスを利用するのを止めた。この問題を高校の卒論の様なもののテーマとして扱っていた時には、白人の酷さについつい目が行きがちだったが、今になってはその「静かな抗議」を前にして白人は何を思っていたのか、という点も結構重要だったのではないか、と思う。彼等白人は、黒人が軒先に座り込んでいるレストランで食事をしながら、黒人が乗っていないバスを利用しながら、何を思っていたのか。自分たちの行為(=差別)がもたらす意味を、それをぶつける相手がいない時に向き合わされた時に、自責の念を抱いたりはしなかっただろうか。公民権運動の一大局面であるこの時期を理解するのに、こういった白人側の心理的側面も重要なのかもしれない。


話がちょっとそれてきたが、本筋に戻しながらもう少しダラダラと続ける。差別というものは基本的に「弱さ」から来る。きっと真に強い者は差別など必要としない。この世から差別がなくならないのは、そういった超人的な真に強いものが存在しないからではないだろうか。「チーノ」と差別する者達も、一度北側の国境を跨ぐと同じ様な差別を、今度は受ける側になる。そしてそれに対して不当だと訴える。これを矛盾とみなすことは簡単だが、自分もそういった類の「弱さ」を持ち合わせているせいか、どこかそれが「自然」なものに感じられる。しかし、だからと言ってそれが許容されるわけではない。弱さを弱さと認めた上で、そこから始まるものがある、と私は考える。それ故に、気まずさ等から自身の弱さと向き合う機会を創り得るだろう、「言っていることは理解していると示しながら無視をする」という方法が強力だと思うのである。しかもこの方法は、差別の一つの特徴である「連鎖性」というものを(一時的にせよ)断ち切る。もっとも、この方法を採るにはそれなりに人間ができていないといけなく、私の様な青二才(AOだけに笑)にはまだまだ完全には採用不可能な代物ではあるのだが。


ちなみに「Jimbo Purepecha」さんのところの「チーノ考」も興味深い(COLMEXその他でもお世話になっているこの管理人さんはとてもヒマな笑マメな方で、このサイトにはメキシコの基本情報が詰まっていてとても便利である>またまたヨイショしておきますね笑、Yさん)。呼びかけとしての「チーノ」については、恐らく確率性の問題もある、と思っている。これは、私達が日本にいる欧米系の外国人に対し「アメリカ人」と言ってしまいがちなのと似ている。昔、どこに行っても英語で話しかけられて嫌だ、ということを投書していたドイツ人の方の話を聞いたことがあったが、私達在メキシコ日本人が感じるのはそのドイツ人が感じたものと同じなのだろう。


4月24日にこんなエントリーを書くのもメキシコ在住者としてどうか、とは思う。と言うのも、今日は前(?)メキシコ市長であるAndre's Manuel Lo'pez Obrador(略してAMROと言うらしい)が罷免されたことへの抗議デモがあるからだ。実はその生中継を眺めながらこのエントリーを書いている。見に行こうかと思っていたが、明日の準備のため、また実はこの件については勉強不足のためによく分からない部分がありLo'pez Obradorの主張がどこまで正当なものか判断できていないために、テレビで「観戦」することにした。アクチュアルな話題だけに、近日中には何か書きたいとは思うが、この件に関しては無関心だったのでとても稚拙なものになるだろう(いつもそうだと言えばそうなのだが…)。


ただ、今さっき終わった演説で語っていた、(彼は次期大統領候補でもあり、2006年の大統領選挙を当然意識して発言していた)民営化なしのエネルギー部門の近代化は、彼が考える程容易なものではないと思う。確かに今すぐにPEMEXの民営化を決行したらメキシコ経済は凄いことになる。しかし、財政的な観点からも、競争力という観点からも、いつかは民営化に踏み切らなければならないと思う。この問題の解が、彼の言う民営化なしの近代化(これをPRIとPRDが言うPEMEX改革と解釈しても良いのだろうか?)なのかどうか、これは興味深い問題でもある。またこれからメキシコにおける最大の政治的要件となるであろう貧困政策という点から見て、彼と現職のFOX大統領の貧困政策を比較するのはとても面白いと思う。広義にはこの分野を一応の専門としているので、それなりに資料を集めて比較検討してみるのも面白いかもしれない。あわよくばこれで卒論を…なんてことはあまりにも場当たり的なので胸にしまっておこう笑。思いがけず略語が幾つか出てきたが、詳しくはこの件について改めて書く際に説明したいと思う。