倫理と言う得体の知れないものと自由について


旅日記を書く上で迷っていたのは、ドラッグ云々についてである。本当ならばこれから旅をする(私の様にドラッグに興味の欠片もない)人のために、例えばフローレスカンクン等での「被害」状況を詳述しようかと思ったが、それは逆にドラッグに対しある程度の好奇心を抱いている方々の「役」に立ち得るので、それ程詳しくは書かなかった*1。そのことやそれに関することについて、多少及び腰ながらも思うところを書いておきたい(括弧をいつも以上に使用しているのはその逡巡を明確に物語っている)。


海外に滞在している間に、ふとした(大半は軽率さから来るのであろう)理由でドラッグに手を出す、という話は実によく聞く。私の周りでも、残念ながらその手の話は(ごくたまに)聞く。はっきり言ってしまえば、それは各自の「自己責任」に帰する問題だと思うので、あまり他人がどうの、とは言いたくない。が、そういった類、つまり一般的に許容されるレベルを超えたところでの「羽目の外し方」に、今どことなく、ある意味論理的な意味で、矛盾を感じている。


旅日記で何度も書いた通り、私は薬物関係にこれっぽっちも興味がない。良い子ぶるつもりはないが(「良い子」じゃないのは、幾度かでもこのブログをお読みになったことがある方なら既にお分かりだろう)、「やってみようかな」とすら思わない。旅の途中で何度も(きっとチャラチャラした外見から判断して)「こいつはドラッグやるだろう」という売り手側の勝手な思い込みから嫌な目に遭ったが、カンクン辺りでふと、しかし何故自分はこれっぽっちの興味も持たないのだろう、と考えてしまった。その時から思い出す度に考えてみても、未だに何故かは分からない。


恐らくそれは、幼い頃から身体の奥深くまで叩き込まれた「倫理」というもののせいではないだろうか。人間の思考のコードはある程度環境に依存している、という、ある種の方々には馴染み深い理論を知らないわけではない*2が、しかし例え非主体的な思考がもたらした「倫理」というカラクリを知っていても、その「倫理」に完全に抗うことはできない。その、至極漠然とした「良い子のためのルール」のために、私は薬物に微塵も興味を抱かないのである(のだと思う)。


しかし、この「倫理」は薬物に手を出してしまう方々をも、やはりしっかりと捉えているのだと思う。一部の方々がドラッグに魅了されるのは、それが快楽をもたらす(のだろう、経験したことがないので分からないが)からということもあるだろうが、それと同時にこの「倫理」に抗することに対して抱いている憧れというか、そういうものが働いているためではないだろうか(抵抗の快楽とでも言えよう)。そういうものが全く理解できないわけではない(むしろある面においてはよく理解できる)が、しかし「どことなく良くないもの」であると(無意識的にせよ)理解しているのにその「どことなく良くないもの」に手を出す、という図式をなぞりたいとは私は思わない(「滑稽ですらある」、と初めに書いていたが、それは言葉が過ぎるし私の意図と微妙にズレるので消し、また「カッコ悪い」と書こうかとも思ったがこれも同様の理由で却下した)。ましてやその境界を海外での(本人が勝手に感じているに過ぎない)解放感から越え、「日本は窮屈なのに、あぁ海外はなんて自由なんだ」等と思うのは、やはり違う。何かに抗うこと自体、そのものが支配する土俵で戦わざるを得ない。しかし、そのことには限りなく無自覚的である。詰まるところ、私が感じていたものはこの点に由来する(のだろう)。


ついでに書くと、ドラッグに限らず、「海外での自由の謳歌」という言われ方がよくされ、また方々で聞く限りではメキシコでもそれがある程度当てはまる様だ(旅行者にしろ、在住者にしろ)。しかしその見せ掛けの「自由」を「自由」と呼ぶのに私は抵抗感を覚える。これは、私の高校が(地方の公立高校としてはかなり画期的な)「自由」を売り物にした高校だったこととも関係してくる*3。母校には校則というものがなく(決まっているのは上履きと体育館シューズくらい)、服装も髪型も自由、カリキュラムも(ある程度の幅こそ決められてはいるが)各人で決める、部活動というものは存在せずサークルというカタチで種々の活動が為され(大学のサークルの様に新規に立ち上げたり複数に所属するのも勿論可)、年間行事は生徒側で企画運営、という環境だった。私自身この「自由」を最大限享受させてもらい、刺激的な三年間を過ごせたが、時には学校全体の問題としての「自由」というものが取り立たされもした。サークルの関係もありその辺りは大分考えさせられたのだが、最終的に私が出した結論は、「自由」とは「規律・管理」の対義語ではなく、「放縦」のそれである、というものだった(そして今でもこの様に考えている)。むしろ「規律」は「自由」の一部、しかも基本的な部分である。その意味からすると、上記の「海外での自由の謳歌」の「自由」を私が受け入れられないのもお分かりいただけるのではないか。そう、ここでの「自由」は、その対義語である「放縦」と化してしまっているのである。


一年程前に読んだ、柄谷行人『倫理21』(平凡社ライブラリー)の中で、柄谷氏がカントに依拠しながら自由について語っていた*4。この本を読んだ時に(実際にカントについての知識は著しく欠けているにもかかわらず)この部分がやけに腑に落ちたのは、高校時代の経験と非常に似ていたからだと記憶している。


倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)


話が大きくそれてしまった上に、論理が至るところで破綻している。よくわからないことについて書いているためでもあるが、その点は大目に見て、軽く鼻で笑いながら読み飛ばして頂きたい。また一応念のために書くが、メキシコでもドラッグは違法で、所持しているだけでも罰せられる。最近ではバイヤーが警察と「結託し」、売りつけた傍から密告し捕まえさせる(=両者共そこから利益を享受する)という話も聞く(カンクンでは警察がすぐ隣にいるのにドラッグ買わないかと声をかけてきた輩がいたが、それもこのパターンだったのかもしれない)。

*1:実際リファラを見るとドラッグ情報の検索等から多く引っかかっているみたいだし、キーワードリンクもそれらのもの関係が多い。それらの全てがドラッグを求めている方々によるものとは限らないが、それでも相当数のアクセスがこの様なウェブ上の片隅で細々と続く拙ブログにまで及ぶというこの事実自体が、私にはドラッグと日本人旅行者との(恐らくはずっと存在した)「蜜月関係」を表す何よりの証拠ではないかと思えるのである。

*2:と言うより構造主義について書かれた書物には大分お世話になった。

*3:新しいタイプの高校、パイロットスクールとして生まれた新設校だった。

*4:今現在手元にないので、この本を用いたレポートの残骸からの怪しい孫引きになるが、柄谷氏が言うにはこうだ。曰く、『では、自由あるいは主体は存在しないのだろうか。カントは、それは実践的(道徳的)な次元でのみ存在すると考えました。そして、それは義務あるいは至上命令に従うことにおいてあるというのです。これはおかしい、命令に従うことがどうして自由なのか。このことに躓いてカントを批判した人たちが大勢います。しかし、カントがいう至上命令とは「自由であれ」という命令だと考えればよいわけです。(中略)「自由であれ」という命令によって、はじめて、「自由」であること―実際にはそうではないとしても―がもたらされるのです。』(p13)。