ルーティーンから離れ、ルーティーンへと収束する


旅立つ前の興奮を、一連の旅日記を書きながらありありと思い出すことができた。日常から得る沢山のもの、という話を以前書いた様な気がするが、しかし文字通り「日常から離れる」ことが孕む表現しようがない魅力というものの存在は、多くの人が認めるところではないだろうか。人を旅に駆り立てるものの一つとして、この「ルーティーンからの逸脱」というものは真っ先に挙げられるものではないだろうか(私の場合はそうだった、勿論旅先の街に対する興味がそれに続く)。


実際旅に出て、初めの頃は特に、その「非ルーティーン性」というものにことごとく魅了されていた。知らない街を、バックパック一つで次から次へと周る。体は疲れていても、心は踊っている。そんな思いを私が抱いていること自体、私を知る人にとっては不思議なことであるだろうが、しかし何度も興奮のために中々寝付けない夜を過ごした。


しかし、旅も中盤に差し掛かってきた頃から、初めの「非ルーティーン性」を大して感じていない自分に気付いた。それは何故か。どの街に行ってもやることは大体同じだからである。バスターミナルに着き、中心部の安いホテルを何件か回り、その中で良さそうな所に決める。まだ日が高ければ、街の中や近郊を回る。そんなに長居しないで、適当に次の目的地までのバスのチケットを買う。そして、数時間かけて次の街へと向かう。そして次の街のバスターミナルに着き…。勿論街によって違いはあるが、大体はこのパターンである。


そして何度かこれを繰り返しているうちに、この「旅のルーティーン」の中に自分がいることに気付いたのである。「ルーティーンからの逸脱」で始まった旅は、いつしか新たな「旅のルーティーン」を生み出す。途中から旅先で感じるようになった「既視感」は、このせいだったのだと今になって気付いている。「非ルーティーン性」と「旅先の街への興味」が煽っていた旅への衝動が、前者の変容によって弱まったとしても不思議ではない。この「非ルーティーン性」に気付き始めたのは、カンペチェ辺りだったと記憶している。そしてその次に訪れた街・ベラクルスで、この旅はその幕を下ろした。メキシコシティに帰り、以前のルーティーンに戻ったのだった。


こう書くと何か「ルーティーン」が味気なくてつまらないものだという印象を与えてしまうかもしれないが、それは私の言わんとしていることではない。日常も日常なりにまた、以前書いた様に、刺激的ではある。違いはその大半を占める「予測可能性」に、安心するか、飽き飽きするか、である。