always there for me


相変わらずプレゼン準備に追われる年末を送っている。今日の昼食は手抜きして煮込みタイプのインスタントラーメンだったが、気休め程度にニンジンとタマネギを入れ、何となくヘルシーな気分に浸る。


日課と化してしまった「カフェで読書」をしに、いつもの某チェーン店に行く。プレゼンではインフォーマルセクター研究と開発理論の展開の関係、また、世に言う「グローバリゼーション」が与えるインパクト等を取り込んだものにする予定なのだが、開発理論の中でも特にインフォーマルセクター研究との関係が深いと思われる「改良主義」という一昔前の潮流や、そこから展開していったと考えられる、アマルティア・センらの「潜在能力アプローチ」について言及し、何らかの考察をしようかと思っている。日本で所属していたゼミの課題であった絵所秀紀『開発の政治経済学』(日本評論社)の該当箇所を読み直すが、読んでいるうちに、スティグリッツらの研究(絵所氏の分類で言う「新制度派アプローチ」)にもやはり少し言及せねば、という気になる。家に帰ってからバリバリ読んで、日本語の草稿をガンガン直し、その翻訳に入ったためにでき始めたスペイン語草稿(原稿代わり)のピッチも上げて、と意気込みながら帰路につく。そして、ふと気付く。いつも着けている指輪がない。


玄関のドアを開けたときにふと感じた違和感で、そのことに気付いた。歩いてきた道を目を凝らしてうつむきながら引き返し、カフェの店員にも聞いたが、見つけることはできずじまい。そもそもいつからなくなっていたのかすら覚えていない。家の中か、歩いてる途中か、カフェの中か。全く記憶にない。


たかが指輪ではある。GARNIという代官山のショップのものだが、その中でもシンプルで、値段もGARNIにしては驚く程安かった。しかし、私にとってはそれなりに意味のある指輪であった(今となっては「あった」という過去形を用いてしか表現できないのだ)。


その指輪を買ったのは大学一年の冬、新年早々だったと記憶している。19歳だった私は当時、日々の暮らしにあまり、と言うより全く、満足していなかった。将来を高校生なりに考えた末に選んだ大学での日々は、期待していた様なものではなかった。プライベートの様々な局面で何かしらの問題を抱えていた。将来に対しての、かつては惜しまなかった努力も、いつの間にか止めてしまっていた。高校時代にしていたダンス(俗に言うヒップホップやその周辺のジャンル)の様に、夢中になったり誰かと衝突する程アツくなったりするものもなかった。バイトと学校と家の往復。始めたばかりの接客業には戸惑ってばかりで、家庭教師をさせてもらっていた子との距離にも悩んでいた。若さゆえの悩みもまた人並みに抱えていた。


何よりもそんな自分に対して私は不満を募らせていたのだろう。このままではダメだと思っていた。何かに一生懸命でありたかった。何も没頭できるものなどないけれど、せめて日々の暮らしにしがみつこうと思っていた。いつまでも子供のままではいられない、大人にならなくてはならない。接客のバイトを始めて三ヶ月目に、どうにか職場で、まだまだ一人前と言うには程遠いが、それでも人数として数えられている、と思える様になった。その月の給料で何かしら、一人の大人としての「証」とでも言えるものを買おう、当時の私はそう考えたのだった。アクセサリーの類は安物しか持っていなかったので、一点豪華主義で自分にとっては高価と思えるものでも買おう、と。そこで選んだのが指輪だった。


指輪を買っても自分を取り巻く状況はすぐには変わらなかった。と言うよりも、最悪と言えるまでになったのだった。プライベート、接客バイト、家庭教師、大学。当時の生活の大部分で、相当のフラストレーションを感じるまでになった。どうにかこうにか、大学のテストという義務を果たすために走り続けようとしたのだが、決定的な事件をきっかけに、自分の中の何かが音を立てて崩れていった。その事件とは、当時住んでいたアパートの階下の住人から受けた、謂われもないことについての脅しであった。


今考えるとどうしてそんなことで、と思ってしまう。しかし、当時の私は既にどこか無理をし過ぎていた様に思える。悪いことは重なるというが、この時程それを実感したことはない。ガタがきていた支えはあまりに脆いものだった。その後のことは、実を言うとあまり覚えていない。思い出したくないだけかもしれない。フロイトが言った「抑圧」というものなのだろうか。


しかし、そんな時も私の右手の人差し指にはGARNIの指輪があったことは確かだ。初めて買った、それなりの質の指輪。買ってからはほぼ毎日着けていた。カジュアルな時でもフォーマルな時でも、飽きることなく毎日毎日。一番苦しい思いをしていた時から今日まで、毎日毎日。もう手元にはない、あの指輪。


こう思い返してみると、あの大人としての「証」たる指輪と共に歩んだこの二年間、本当に様々なことがあった。今、私はもう大人になったのだろうか。否、だ。まだまだ大人になりきれていない部分も多い。親や他人に頼ってばかりである。一生懸命生きているつもりでも、知らず知らず誰かを傷つけてしまうことだってある。内的にも外的にも寛容さが足りないと思うこともしばしばだ。だが一つだけ確かなのは、初めてあの指輪を手にした時から少なからず前進していることだ。たった少しだとしても、前進している。これだけは、自信を持ってとはいかないが、人に言える。


カタチあるものいつかは壊れる。世の常である。人間であれ、ものであれ、何だってそうだ。昔何かで読んだのだが、インドでは何かの拍子に皿が割れてもそれが以前から予定されていたことだ、と考えるらしい(記憶はもの凄く不確かだが)。私とあの指輪との関係も、定められていたものなのかもしれない。そう考えた方が精神衛生上良いだろう。一抹の悲しみは消えないけれども。


"always there for me, no one else but you, always there for me, in my memory―"。私の好きなバンドの一つ、the band apartの「K. and his bike」(『K. and his bike』収録)という曲の一節である。この曲を聴くといつも何だか穏やかな気分になる。先程から何度も繰り返し、この曲を聴いている。諦めと後悔のせめぎ合いに終止符を打つためにだろうか。自らを静めるためにだろうか。


指輪の一つや二つ、メキシコであればその辺の露店で買えばいいことかもしれない。しかし、今はそのつもりは毛頭ない。長年の慣れからくる違和感に負け、手ごろなものを購入したとしても、きっと前のもの程の愛着は抱かないだろう。いつかあの指輪に抱いたのと同じ様な愛着を注げる指輪に出会えるだろうか。そうであれば良いと、今はただそう願うのみである。


ものに意味を込める行為など、愚かしいことこの上ないのかもしれない。しかし人は時に何かにすがることでどうにかこうにか生き長らえる生き物でもあるのではないだろうか。


何が何だかよく分からなくなってきた。一言で言えば、それなりに自分の中では意味のある指輪だったので、自分でも馬鹿げているとは思うが、相当のショックを受けている。そのうちどこからかひょっこりと出てきてくれるといいのだが、おそらくはもう永遠の別れなのだろう。年末進行真っ只中の今の私に落ち込んでいる暇はないのだが、何かする気にもなれない。今日はもう少しだけ、失くしたものとの思い出に浸っていようと思う。


開発の政治経済学

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K.AND HIS BIKE

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