冬、ニットキャップ、メロディ
メキシコシティはここ数日急に冷え込んできている。二十年ぶりという人もいれば、去年もかなり寒かった、という人もいる。とにかく寒い。
私の中で冬と言えばニットキャップである。基本的にハット党ではあるが、背に腹はかえられないので、冬はニットキャップのお世話になることが多い(夏はメッシュキャップ様々である)。先週の日曜に行ったグアダルーペ寺院近くのメルカドで買ったニットキャップが最近のヘビーローテーションである。メキシコではそんなに被ってはいないが。
ヘビーローテーションと言えば、最近のBGMはもっぱらLINKIN PARKかミスチルである(すごい組み合わせ笑)。リンキンは以前バンドでコピーした時はそれ程「グッ」とこなかったのだが、今は何故かしっくりくる。と言うより、メキシコに来てから自分の中でミクスチャー熱が再燃している。
ミスチルをこんなに聞くのはウン年ぶりではないかと思う。小・中学生の時は飽きる程聞き、歌詞を全暗記し、卑猥な表現にドキドキしていた(特に「everybody goes―秩序のない現代にドロップキック」笑)。その後、ビジュアル系の洗礼を受け(グレイやらラルクやら)、高校時代にパンク*1を知り(ハイスタやらハスキンやら)、その後洋楽ロック(グリーンディやらノーユースやら、だが、洋楽はジャンル云々と言うより「雑食」気味)、という、二十歳前後の日本男児に典型的な音楽趣向変遷を辿ってきた私が、数年の時を経てこうして「原点」に回帰している、というのは、それはそれで、我ながら面白い。日本語の音楽を紹介する際に困らない様に、との思いで何枚かCDを持ってきたのだが、あぁあれも持ってくるんだった、と思うまで自分が聞き込んでいる(歌い込んでいる)始末である。
不思議なのは、数年間全く聞かず、また(ピーク時は週三で行っていた)カラオケでも全く歌っていなかった曲でも、無意識的にスラスラと歌えることである。勿論全てがそうではなく、思い入れが強かった曲だけではあるが、それでも、頭で考える前に歌詞がメロディに乗っている、そんな現象が眼前で繰り広げられているのは何だか他人事の様に思える。
感情、理性、意識、欲望。そういったものを最近はよく考える。音楽やファッション、食に対する趣向もまた、そういったものに関係していると言えなくもない。潮流という名の権力に流され、自己を規律し、いつのまにかどっぷりその中に漬かっていても、何かしら欲望的なものは各々の中に残る。その欲望そのものも、何らかの権力(あるいは反権力)的流れの中にあるということもまた事実であるのだが。
道徳的・倫理的に間違っている、主義に反する、理想から乖離している、そういうシグナルを脳のどこかで感じつつ、誤りに半ば気付きつつ、それでも道を進み続ける。人間は時としてこういう愚行を繰り返してきた。(括弧付きの)「歴史」はそれを私達に教える。それでも人間は、自らの身体でそれを繰り返すまで、本質的にはそれが何たるかを知らない。繰り返してからも、更なる過ちを重ねることもある。
誰かが歌っていた気もするが、欲望なんてものは結局はイメージに過ぎないのかもしれない。リアルな現実は、時に不確実性に満ち、楽しみに溢れるが、また時にもの凄くあっけなく、予定調和的なのだろう。身体や意識は、脆く儚い。それだからこそ、愛しく、大切であるのだろうか。
数年間銜えることも、その煙に近づくことも嫌悪していた煙草に対して態度が軟化し始めたのはいつからだろうか。約一年前、まやかしの大切さの正体が暴かれた頃からだろう。週に二、三本だけではあるが、白く細い棒から大気へと消えていく煙を見るのはどこか切ない。儚さがどこからか胸に去来する。
大切さとは儚さと隣りあわせであり、漠とした不安がまた、愛おしさをもたらす。過ちもまた、儚さの掌の上で転がされているに過ぎない。ロジック等ない。思惑等もおそらくは存在しない。ただそこにあるもの、それが全てなのだろう。疑念は消えなくとも、迷いは失せなくとも、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。言葉にできるモノの方が圧倒的に少ない、だからこそ逆説的に、私は言葉をあらゆるカタチで残そうとするのだと思う。
マルボロライトのマイルドさが、カフェラテによく合う、肌寒く暗い夜に、カフェで一人そんなことを考える。意味はなく、欺瞞に満ち、単なる自己正当化・自己満足・堂々巡りであったとしても、それはそれで良い。私的雑感と初冬の肌寒さが、今夜は、コヨアカンの隅っこで渦巻いている。