村上春樹と国際恋愛


メキシコでは日本語学習者(及び習いたいと思っている学生)が多い。高校によっては、おそらくは選択制なのであろうが、日本語のクラスを設けているところも数多くあるらしい。


そのせいもあってか、日本人留学生にはそういったメキシコ人がよく声を掛けてくる。私も御多分に洩れず、所属先のCOLMEXでも近隣のUNAM(メキシコ国立自治大学)でも、またその他の場所でも、その様なカタチで知り合った友人が少なからずいる。男女比を見ると女性の方が多いのは、私が男であるためメキシコ人男性に避けられる(いや、日本語を話すメキシコ人男性の友人も勿論結構いるのだが、相対的に考えるとこうではないかと思う)、反対にメキシコ人女性は日本人男性を好む、私としても女の子と友達になる分には何ら不都合は生じない(モノは言い様である笑)、という種々の要因が奇妙に(ある意味シンプルに)重なり合った結果であろう。


恋愛に関して言えば、メキシコ人は一般に「熱い」と言われている。熱しやすく、また積極的であり、この辺りが洋の東西の違いだな、と思わせられる。特に男性*1は、言葉は悪いが、「手」が早い。日本人女性は中でも人気らしく、そういった話を多く伝え聞いている。


同様に「日本人の男をヒッカケて日本に行こう」と目論む女性がいる、という話もよく聞く。カトリックな国であるメキシコでは処女性を重んじ、関係を持った時点で将来が決定してしまう、という、もう誰もが笑い話にしかしない、ある意味では神話とすら言えるものを真に受けている部分が、そういった親日的メキシコ人女性を貶める噂(に過ぎないと私は考えている)と絡まりあっている様にも思える。確かにメキシコ人の多くはカトリックだが、若者の教会離れは著しく、処女性神話も完全に崩壊している。


とは言えそういう、言うなれば「下心」を抱いている方々ばかりではないことを今更指摘する必要もないだろう。日本語や日本文化に対して、純粋な憧れや羨望、そういうものを抱いている方々もやはりいる。


ただ、古からの言い伝えが教える様に、男女間に恋愛感情じみたものが存在するのが世の常である。「日本」というナショナル性を帯びた者*2と、それに何かしらの興味を抱く者。この様な場合の異性間におけるこういった関係を、しかし、どことなく不公平なものと見ることもできる。私自身そう見る向きがなくもないが、そんなことを考えていて私が思い出してしまう作家が、村上春樹である。


欲望と理性との間で繰り広げられる瞬間的な葛藤、とでも言えるものが、村上春樹の小説では頻繁に出てくる様に思う。それは「僕」が「フェアネス」(@『ダンス・ダンス・ダンス』)と呼んだものであったり、「ピンクのスーツの太った女の子」が「生活倫理」(@『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)と推してみたものであったりするが、それが持つ儚さ、感情の芯の部分に対する従属性、というものもまた、村上春樹は再三再四描いているのではないか(と、ド素人ながらに思う)。「僕」は結局「ユミヨシさん」と関係を持つし、『ノルウェイの森』も感情に突き動かされて主人公が微妙な関係(より正確な表現はおそらく、最近の(私より)若い子達が使う言葉を借りると、「ビミョー」な関係、であろう笑)の女性に電話をかけるシーンで物語が終わる(記憶が確かならば)。


主義・主張といった、せいぜいヒトの頭の中でやっとこさ紡ぎ合わされるボンヤリとしたものが、結局は感情に屈してしまう。勿論、意識や感情が完全な独立を保っている等とは考えていないし、そこに色々な影響が及んでいるのは先人達がとうの昔に明らかにしている。とは言え、経験的にも、(特に私の様な人間の場合は)主義・主張がいかに簡単に感情・欲望・煩悩の軍門に下るのかを十二分に理解しているためか、私は村上ワールドに引き込まれるのであろう。


ぐずぐずと書いてはみたものの、異なる国籍を有するもの同士の恋愛が、ナショナリティ及びそれに付随する経済的・文化的影響という点において、フェアであるかどうかはやはり分からない。ただ私としては、1000グラムやそこらの灰白色の物体が作り出したイメージに絶対的な信頼を置くことはできない。現実はもっと複雑で、予測不可能で、刺激的である(はずだ)。

*1:断っておくがこれは主観的意見である。しかし、女性にも積極的な方が見受けられるのまた事実であり、時に辟易させられることもなくはない。

*2:ではナショナリティとは実際のところ何であろうか、という素朴な疑問を抱いてもいるが、あまりにもテーマが大きすぎてほんの僅かな「悪あがき」程度の文章も書けない有様である。