リンチ事件と感覚的問題


リンクを頂いている「アクセスされたURLは変更されました」さん経由で、悲惨な事件のことを知った。麻薬組織を追っていた警官三人が、あらぬ濡れ衣を着せられ、怒り狂った300人以上とも言われる地元住民によって、リンチの末に焼き殺される、という、背筋が凍りつくような事件である。


旅行資金捻出のための貯金中の身であるので土曜日にしか新聞を買っていなく、また家でのネットにはプリペイドという制限が掛かっている為に十分な情報収集活動に勤しめないので、タイムリーに情報を得られない、という言い訳を見苦しくも一応しておくが、この事件についてショックだったのは、事件があったその日、生前の被害者に対してTelevisaというテレビ局が行ったインタビューを、ちらっとではあれ、見ていたことを事後的に気付いたと言うことである。


事件があった火曜日は朝(世間一般的には昼前)から図書館に籠もっていたので、いつもより幾分早く帰宅したとは言え疲れていた。部屋に着いて即座にテレビのスイッチを入れると、スポーツ専門のケーブルテレビでチャンピオンズリーグという、ヨーロッパ一のサッカークラブを決めるビッグイベント(の予選)の模様が中継されていた。元サッカー少年としてはこれを見逃すわけにはいかず、また数年前からチャンピオンズリーグだけは比較的ちゃんと見ていることもあり、食い入るように見ていたのだが、中だるみしてきた頃に他チャンネルを「巡回」していて、その時にTelevisaのインタビューも確かに見ていた。


しかし、いきなり血だらけになって倒れた警官にインタビューする模様を見せられたその時の私は何が何だか分からなかった、と言うよりも、ノンフィクションだとは思えなかった。それ故にインタビューの内容も殆ど聞かずに別のチャンネルへと移った。


人間の秘めた凶暴性、集団という魔力。色々と言い様はあろうが、そんなことはとうの昔にフロイト等によって言い尽くされているので、事件についてのコメント及び考察は差し控える(むしろ簡にして要を得たコメント等出来ない)。被害に遭われた三人の警官のご冥福を祈るだけである。しかし、今回の「すれ違い」は何か、自分の卑しさを示唆している様にも思える。人命に対する感覚の麻痺、とでも言えよう。


開発学の世界では時にシビアな選択を迫られる。これは私の様にほぼ初学者と言える立場にあっても、幾度となく考えさせられてきた問題だ。考えるのをやめたわけではないが、一時的にそのことへの意識が低くなっていたのは否めない。些細なことかもしれないが、重大な欠陥とも言える。


シンプルなものは時と共にその存在感が薄れるものなのだろうか。今回の事件は私に、シンプルではあるがとても重い問題を思い起こさせた。