依存


兄の結婚式の写真が先日送られてきた。ついでに、と頼んでおいた、村上春樹アフターダーク』(講談社)と『地球の歩き方』(ダイヤモンド社)の中米編とロス編も無事に届いた。


自分がいるべき場所に自分の姿がない、そんな光景を、写真を通じてではあるがまざまざと見せ付けられた。仕方がないこととは言え、後悔の念は消えない。しかし、喜ばしいことであることには変わりない。来月にはビデオができ上がるらしいので、それも送られてくることを今や遅しと楽しみに待っている。


今回だけではなく今までに数回、何かしら両親には送ってもらっている。鶏がらスープの素から国際キャッシュカードまで、本当に色々なものを送ってくれた(カードは今考えると危険極まりないが、何事もなく無事届いた)。いつまでたっても親に依存する、最近の若者の典型なのかもしれない。


高校に入った頃から自らにかかる両親への金銭的負担を気にするようになった。その頃からアルバイトを始めたせいで賃金を得るということの持つ意味を子供ながらに認識し始めたからかもしれない。一度ならず何度か、そんな些細なことを気にかけるな、と両親から言われたことがある。親の責務、という様なことを言ってくれたと記憶している。


しかしやはり私としては気にかけてしまう。日本に帰ってから、学部には一年半、その後(もし希望が全て叶って)進学できたのならば更に数年、学生という身分に留まらせてもらうことになる。20代も半ばにさしかかり、友人達が家庭を築き始めるような年齢になってもまだ、職に就けないかもしれない。そういうことをたまに、もの凄く漠然とではあるが考えると、途方に暮れてしまう。


人に向かって高々と言い放てるようなものではないにしろ、私も一応「志」というか、そういう類のものを持ち合わせている。それを心に秘めながら、自分らしく、自分なりのスピードで、前へ進むしかないことは分かっている。しかし、現実は色々なものを私に突きつけてくる。非現実に近い世界で生活しているからこそ、時に生々しい現実が脳裏を過ぎる。


漠とした、罪悪感にも似た感情を抱きながらたまたま手にした本がある。それは、今週末にメキシコに来ている数人の方と読書会をすることになり、発案者の特権として推した、一冊の思い入れの深い本である。それを初めて手に取ったのは大学に入学した年の暮れであった。その死が世界中で悼まれ、また同時にその偉大な功績を称えられた、エドワード・サイードの『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)である。


知識人という呼称は今では幾分の侮蔑と共に使われる。だが、サイードが提起する知識人像は、自分とは本来関わりがない誰かのことを思い、その誰かのために何かをしたり考えたりしていきたいと願う全ての人々に、そのあるべき姿の一つを示している。


自分がサイードの言う知識人たれる等とは思っていない。それは私という人間の範疇を軽く凌駕している。しかし、いつの日からか抱くようになったこの「志」を貫き通せば、一歩でもそれに近づくことができるはずではないか。初めてこの本を手にした時、それは今の私が夢見る未来に初めて自分自身を重ね出した時期であるのだが、その時に感じたものを、改めて読み返していくうちにしみじみと思い出した。


夢と現実という対比はあまりにも手垢が付いたものに感じられるかもしれない。しかし、やはり多くの方がその折り合いというものに悩むのではないか。こうしている今も、私は若干の迷いを感じてはいる。しかし、表面的なものからもっと離れたところにある、核といえば聞こえはいいが、それに似た様なものの姿を再び意識できていることもまた事実である。


知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)