年輪


明日の誕生日を迎えて、二十一歳になる。もう二十一歳、等と言うと、年上の方々からの顰蹙を買ってしまうのだが笑、しかし実感としてはそうである。


去年の今頃は何をして、何を思っていただろうか。ある意味では今よりも幸せで、ある意味では不幸せだった様に思う。束の間の儚い幸福感に酔いしれ、それがいつまでも続けば、等という願いを抱いていた。それが虚構であったことを、薄々は感じていたにもかかわらず。


その幸福に似たまやかしとはきっぱりと決別し、私は今こうしてメキシコにいる。それが良かったのかどうかは良く分からないが、後悔の念は微塵も感じていない。確かにメキシコに来たことで失ったものも多い。大学の友人達(一部の、ある学業的アクシデントに見舞われた者を除く笑)とは共に卒業できなくなったし、たった一人の兄の結婚式にも出れなかった。それ以外にも沢山のものを失った。しかし、メキシコに来なければ出会えなかった人、体験できなかったこと、そういったものもまた、自分にとっては大きな意味を持っているのである。


また一つ、年輪が刻まれる。新たな年輪が刻まれるまでに、また多くのものを失い、そして得ることになるだろう。現代では日常という言葉は退屈という意味をも帯びる。しかし、日常の中に散りばめられた、そういう色々なもの・こと・人との出会いもまだまだ捨てたものじゃない。二十歳最後の日、私はそんなことを思った。

Memoria de mis putas tristes

Memoria de mis putas tristes