「気」


COLMEXの友人に誘われ、昨日トム・ハンクスの『ターミナル』を見に行った。映画は好きで日本ではよく見ていたのだが、メキシコではまだ見に行っていなかった。


一言で言えば、空港を舞台に繰り広げられるヒューマンコメディー、である。笑いあり、切ない恋のストーリーあり、時折涙あり、という贅沢さだった。やっぱりこういう系統のものは好きだ。


主人公のトム・ハンクスはヨーロッパの共産圏から来た、という設定で、他にもラテン系(多分チカーノ(メキシコ系)なのだろう)、インド系等と、登場する「人種」は様々である。それは彼等の言葉にも表れる(トム・ハンクスは初め、英語を習い始めた中学生並にしか話せない)。


しかし、まぁ「お決まり」と言ってしまえばそれ以外の何ものでもないのだが、物語はトントンと進んでいく。主人公の周りには次第に人が集まり始め、彼の人柄や心持に惹かれていき、ストーリーは結末を迎える。


映画から帰り、久し振りに静かな週末の夜を過ごす。何気なく手に取ったのが、話題になっているということで先日アマゾンで買った、三砂ちづる『オニババ化する女たち―女性の身体性を取り戻す―』(光文社新書)である。


著者自身が「おわりに」で書いている通り、科学的な根拠に基づくものと著者自身の思い付きが並列に語られていて、そういう意味での強引さは否めない。また、著者のスタンスというか、そういうもののブレ、矛盾が見られなくもない。私としては、これは軽い読み物*1なのだろう、と勝手に思ったので、方々で批判されている方の様には大して気にはならなかったのだが。


この本は女性の「身体性」というものについて書かれたものだが、セクシャリティ上の都合により、生憎、著者の言うことを私は体感することができない。そうであるからかもしれないが、私には著者は「気」についても言おうとしているのではないか、と思えた。


「気」といっても、何も大そうなものを言いたいのではなく、気の持ちよう、と言う時の「気」である。そしてそれは、私が最近つくづく思っていることでもある。


買ったばかりのコップが壊れてしまった。髪を短く切られ過ぎた。お気に入りのTシャツにサルサのシミが付いた。家の中にアリが入ってくる。ペケェーニャ(ステイ先で飼っている犬)の糞を踏んでしまった(何しろ、中庭の至る所で「粗相」するので)。近所の雑貨屋でお釣りを2ペソ(=約20円)誤魔化された。


でも、まぁいっか。最近は何故かこう思うのである。別にいいか、と。暗く、沈んだままでいるよりは、と。


これはきっと、周りの人々の影響なのだろう。いつ行ってもエアロスミスやカフェ・タクバを大声で歌っている、近所のカフェで働くアレン。いつも笑顔でどこか哲学的なセニョーラ。週に一度の語学交換(スペイン語と日本語をそれぞれ話しながら教え合う)の度に遅刻してきながらも、笑って許しを乞うミレイディ。ディスコ(「クラブ」ではない笑)での誕生会に招いてくれた、親日家のアントン。映画に誘ってくれた、COLMEXで顔を合わせる度に話し込んでしまうアルバ。


言葉に問題を抱えながらも皆に良くしてもらっているのは、おそらく、彼等/彼女等の笑顔が私を笑顔にさせ、それがまた彼等/彼女等に届いているからではないだろうか。以前、失くしたもの、等と勢いあまって書いた様に記憶している。未だにハッキリとは分からないが、もしかするとそれは、こういうものなのかもしれない。


他人との関わり合いの中で生きていくことを「生活」と呼ぶのならば、その「何か」は、実地的な生活のハゥ・トゥ術とでも言えようか。大いに泣き、笑い、傷付いていた幼少時に比べて、ある程度の年齢になってからはそういう経験がどこか面倒に感じられるようになったのは事実で、それ故に対処の方策も忘れてしまっていたのだろう。


トム・ハンクスの『ターミナル』と三砂ちづるの『オニババ化する女たち』。全くの偶然ではあったが、この両者に触れてみて、改めて、自分の中にあるぼんやりとした思いについて考えさせられた。


オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)

*1:とは言え本書は、女性性や女性のあり方、性教育等を考える上での一つのヒントにはなるだろう。その実現可能性云々は不問に付すとしても。