"E'l va a la fiesta otra vez"(「またフィエスタ行くんだって」)


Carlos Alba教授のクラスはとても雰囲気がいい。皆気さくで陽気だが、ディスカッションになると鋭い意見を連発する。質問したいことは幾つもありながらスペイン語に問題があるために躊躇している私は、彼等の意見を聞きながら(分からない時も多々あるが)、オンとオフの切り替えが驚く程しっかりできている彼等に感心している。


そして何と言っても、授業が終わると「えー、次のフィエスタだけど…」という話になるところが良い笑。第一回目のフィエスタには、迎えに来るはずのメキシコ人の友人が急に行かないことになったというメキシコ的な事情があって参加できなかったのだが、先週のフィエスタには勿論参加した。今回は事前に住所を聞き、タクシーで向かう、という「安全策」を採る笑。


フィエスタに行く前にキッチンで軽くサンドウィッチを食べていたところ、カタリーナを抱いたソニアと出くわす。ソニアにこれからフィエスタに行くと伝えると、彼女はカタリーナに向かい、"E'l va a la fiesta otra vez"(「またフィエスタ行くんだって」)と言っていた。返す言葉もない笑。確かに最近は(最近も、だろうか)フィエスタが続いている。週に一回か二週間に一回程のペースである。


しかし、何度でも繰り返す(繰り返したい)が、フィエスタとて勉強の場である。ソニアにも"No es la fiesta. Es la clase de espan~ol"(「いや、フィエスタじゃなくて、スペイン語の勉強だよ」)と言ったのだが、これはあながち間違いではない。フィエスタで覚えた言葉も沢山ある。"Chido"(Cool、といったところか)、"Guey"(Hey、の様な呼びかけ)等の所謂「若者言葉」だったり、"Chinga tu madre"や"No me mames, pendejo"等のInsulto(侮蔑語、故に訳出自粛)はフィエスタで覚えた(覚えさせられた)。


COLMEXの学生のフィエスタに行くのは初めてだったので、どんなものかと思っていたところ、かなり盛大なもので、学年に関係なく五十人近く集まっていた。会場は同じクラスの友人の家と聞かされていたのだが、彼の家はメキシコでよく見かける、セキュリティーがしっかりしている柵と門番付きの住宅街の一角で、恐ろしく立派なプールやバスケットコート等の(おそらくは共同の)施設があり、実はそこを借り切ってのフィエスタだった。巨大なビールサーバーが用意され、プールサイドには無数のキャンドルが並べられていた。今まで参加してきたフィエスタとは(特に独立記念日の少年達とのフィエスタとは)いささか趣が違う、と到着直後は思ったが、内実はやはり同じで、飲み、踊り、馬鹿な話をする、という肩肘を張らずに参加できるものだった。


取らないことに決めた講義で隣に座って話した子も来ていた。何度教えても覚えられない人もいる程彼等には馴染みのない、とても日本的な私の名前を正確に覚えていてくれたのは小さな感動だった。私は日本人の名前ですらあまり良く覚えられないので、メキシコ人の名前を覚えるのには尚更苦労している。彼女の名前は何とか覚えていたから良かったのだが、例えばフィエスタで仲良くなった子の名前を次の日には(早い時には数時間後には)忘れていることもある。アルコールが入るとこの「症状」が余計酷くなる。恐らくは、メキシコ人にとっての日本人の名前と同様に、慣れていないからなのだろうが、最近はとりわけ気を付ける様にしている。


フィエスタに招いてくれた同じクラスの友人はとても良い奴である(未だに私の名前を間違える時があるけれども)。フィエスタの最中、ちょっと来いと呼ばれて行ったところ、彼の恋人や幼なじみを紹介してくれた。日本から来た友達なんだ、と。最近はこういうことが多いのだが、その度に無性に嬉しくなる。


彼を一般的なメキシコ人像として描くつもりはないことを断っておくが、彼の様に、心の敷居が低いというか、人間くさくて温かい人に触れる機会がメキシコに来てから多くなった。それは、周りの人々等の外的なものだけではなく、内的なものにも多分に関係していることは分かっている。しかし、成長の過程で失ってしまった様な何かに直面している気がしてならない。


笑顔、楽しさ、笑い声、温かさ、情。失ったものとは何か、直面しているものとは何か、それはまだはっきりとは分からない。しかし、その存在だけは確かに感じている。