恐怖の構造


出発前に行われた外務省での説明会の際にも、またメキシコに来てから聞かされた大使館の方のお話でも、メキシコにおける治安上の注意は長々とされた。そういった話を聞いた限りでは、メキシコでは少し外を歩けば強盗犯に遭遇するといった印象を抱いてしまう、と言っても過言ではない(そのくらい私達は脅されていた)。


しかし私が今見ているこの国の姿は、そういった脅しによって形成された想像上のメキシコ像とあまりにも異なっている。ペセロを待つ私の横で、目的のペセロを捕まえられるか心配してくれた青年。COLMEXに着くまで笑いながら腕の中で眠る孫の話をしてくれた、カミオンで隣に座った婦人。知らない道を走るペセロの中で不安気な私を見て、目的地に着いた際に優しく教えてくれたペセロの運転手。郷土料理を振舞ってくれるステイ先の家族。”Gracias”(ありがとう)という私の言葉に笑顔を返す彼等の存在が、この国を魅力的に見せる。


勿論心優しい人たちばかりではない。行きもしない場所を告げたのに終点に着くまで教えてくれなかったぺセロの運転手や、買ったばかりのタオルを乱雑に袋に詰めるスーパーの店員。こういった人もいる。きっと強盗もいるのだろう。悪徳警察官もいるとの話も聞いた。


しかし、至極当然なことではあるが、こういったことはどの国でも同じである。国民性という言葉もあるが、しかしそれは一つの尺度に過ぎない。そういったもので全てを計り切ってしまうことなど到底無理である。


用心することが無駄だなんて言うつもりはない。私自身色々なことに気をつけているし、無用心な方を見ると他人事ながら心配にもなる。しかし、創られた恐怖心をいつまでも固持し続けることはなかろう。百聞は一見に如かずではないが、自らの目で見たものを信じればいい、押し付けられた厚手の鎧が不要だと思うのならば脱ぎ捨ててしまえばいい、私はそう思うのである。


これから先の人生で私は何度住処を変えるのだろうか。住んでみたい場所は幾つもある。沖縄、ロンドン、北京、マニラ、リオ、マドリッド、ニューヨーク、北海道、オタワ、ソウル、パリ、サンティアゴ。挙げ始めればキリがない。頭の中で思い描かれたこれらの場所は、しかし、実は違った顔を持っているかもしれない。きっとそうだろう。またそうであってほしいとも思う。


言い古された表現ではあるが、「想像」は「創造」ではない。「想像」によって凝り固められたメキシコという国の姿を、私は今、自らの身体をもって「創造」し直している。そしてこの作業は、自分でも驚くほど、刺激に満ちているのである。