不確実な世界


帰国して初めて姪に会った時、あまりの可愛さに思わずニヤけてしまったことを覚えている。その後は約一ヶ月一緒に過ごしたが、日に日に可愛くなっていった。先日帰省した時も(人見知りが始まっているのに)私の腕の中にすっぽり納まっていて、改めてその可愛さを思い知った。子供に対する愛情というのは、私が姪に持っているのと同じく、一方的に大きいものなのであろう。


広島での例の事件が起き、それが(自称、また書類上)日系ペルー人の犯行と分かった時、スペイン語関連の世界の末席にいると勝手に思っている私は人並み以上にショックを受けた。日系人や移民についての講義を取っていることもあり、それらに関する諸問題を考えていたりもしたのだが、あの様なことになってしまい、残念でならない。その後に類似の事件が相次いで起きてしまったことも、悔やまれる。


事件の詳細についてはあまり書きたくないが、一つだけ書きたいことがある。それは、語弊があるかもしれないが、私達が生きているこの世界というのは常に不確実性が伴うものなのだ、ということである。そしてそれに対し、私達はどう向き合っていくべきなのか、この点をカバーするのが法等の「制度」なのではないか。勿論その他の様々なファクターが関連していることも無視できない。日系のブラジル人やペルー人が(世代的な規制付きで)日本に働きに来ているのも、廉価な労働力を資本主義が求めているからであり、三世までという規制も日本社会からの要請があってのことである(と、記憶している)。でも、その前にやはり不確実性をカバーするものとしての制度、というものが必要になってくるのではないか。


誤解を避けるために書いておくが、不確実性があるからと言って、それに見舞われた時にはそれを甘受しろ、というわけではない。不確実性があるのは仕方ないとして、それをなるべく抑える様にすべきだ、ということである。具体的にどうしたらいいのかは、よく分からないし、そういうことを考えるだけの能力もない。ただ、日本社会の一成員として、そういうことを考えているのだが、どうなのだろう。