麗しのモレーリア


13日の朝方、用意していた衣類等をバックパックに詰め込み、メキシコシティの南北バスターミナルを結ぶバス(2ペソ=約20円)へと飛び乗った*1。北ターミナルで簡単な昼食を済ませた後に乗り込んだバスの行き先は、街の綺麗さで有名な中央高原地域でも指折りの観光地、モレーリアだった。


ターミナルからモレーリアの中心部へと向かい、カテドラル(教会)近くの安宿に投宿し、早速中心部を歩いて回った。メキシコに限らず、キリスト教文化の影響を受けている地域では街の中心に教会が建っているのがある種の「お決まり」であるが、このモレーリアの教会及び周辺のソカロと呼ばれる広場は、地方都市としてはそこそこの大きさであり、またその威風堂々とした雰囲気は見る者を引き込む力を持っている様に感じた。この教会は、夜になるとライトアップされ、その景色がまた美しかった。




夜は、モレーリアを州都とするミチョアカン州で研究のための調査をしていて、この時も一足先にモレーリア入りしていた同居人のYさんと落ち合い、夕食(と言うよりもメインはビール笑)を共にした。いつもは家で顔を合わせているYさんだが、旅先で飲むというのはそれと何か違う気がして、いつも以上に馬鹿話に花を咲かせた。


その後ホテルに帰り、前回の旅と違って淡々と過ぎていった一日目を振り返った。何故にこう物事が順調に進んだのかと言えば、恐らく前回の経験が活きているからであろう。この「淡々としたカンジ」は、しかし、面白みのなさを意味するものではない。逆にこれのおかげで、変に緊張感を持たずにすみ、旅を自らのペースでより楽しむことができた(と思う)。その後、前日に買っていたカルロス・フエンテスの『Los an~os con Laura Di'as』を少し読み(結局あまり読まないで家に戻ってきてしまったのだが笑)、この日は床に就いた。


Los años con Laura Díaz / The Years With Laura Díaz (Punto de Lectura)

Los años con Laura Díaz / The Years With Laura Díaz (Punto de Lectura)


明くる14日、朝から前日に回れなかった中心部の博物館等に足を運び、その後バスターミナルへと赴き、レオンという交通の要所となっている街までのバスチケットを購入した。何故レオン行きのチケットを買ったのかというと、次に行く予定だったグアナファトに行くのをやめようかと考えていたからである。確かにグアナファトも良い街なのだが、それ以上にその近隣のサン・ミゲル・デ・アジェンデに行ってみたくなっていたからだ。どちらもモレーリアからのバスの本数はあまり多くなく、そのためにどちらにも比較的近い乗り換え地点であるレオン行きを決めた。もしレオンからの双方へのバスが丁度良くなかったら、その際はそこから直接その次の目的地であったサカテカスにも行ける。そういった事情があり、レオンという、ガイドブックには載っていない(がメキシコでは知名度のある)街に、一旦ではあるが、行くことにしたのだった。


午後は町外れにある水道橋を見に行き、その近くの公園で噴水を眺めながらボンヤリとしていた。他のベンチには地元の人の姿も見られ、皆さん午後の日差しを浴びながらゆっくりしておられる様だった。こういう時間の流れは、田舎生まれ・田舎育ちの私には、どこか懐かしい。行き交う人々を、その様な時間に浸りながら眺めていた。


この日の夜も、言わずもがな、新聞調査を終えたYさんを「呼びつけて」(注:Yさんは私よりも二歳年上です笑)、中央高原地域及び北部で圧倒的な人気を誇る(らしい)、レオンとパシフィコというビールを飲んだ。メキシコシティでも飲めないことはないし、実際我が家の近くの小商店でも置いているが、南部などではあまり見られない銘柄である。メキシコのビールは、クララ(色が明るいもの)とオスクラ(色が濃いもの)の二種類に別れ、パシフィコが前者、レオンが後者に当たるのだが、評判通りやはり両方とも美味しいし、お気に入りの銘柄である。他にはオスクラだったらインディオ、クララならドス・エキスという銘柄が有名且つ美味しい。有名どころのコロナ、ソルといった銘柄も悪くはないし、たまに見かけるご当地ビールグアダラハラではエストレージャというものを見つけた(そして当然飲んだ笑)が、味はまぁまぁだった)もある。ちなみにテカテというのも有名だが、はっきり言って不味い(あくまで個人的意見)。前回の旅ではコロナ中心だったのだが、今回は結構色々飲んだなぁと我ながら思う。ちなみに、私は普段家では晩酌は滅多にせず、同居人Yさんに一人酒を飲ませている非情な男なのだが笑、何故か旅に出ると夕食後は「バー探し」をしてしまう。こんなことばかり書いていると大酒のみの様に思われるかもしれないので、一応断っておく笑(いや、飲めないクチでもないのだが)。


モレーリアは、植民地時代の遺産が色濃く残る、所謂コロニアル都市と言われる街の一つである。歴史的建造物と共にある、そんな街の空気を吸いながら考えていたのは、その歴史というものについてである。街の歴史というのは、一体誰のものなのだろうか。それは、それを脈々と受け継いできた過去の多くの方々のものだろうか。しかし、彼等は「今」「ここ」にいない。今・現在という「生」を生きる人達は、恐らくその歴史というものに一番近い存在である。その手で、そういった歴史を(可視性、という意味において)無にしてしまうことだってできる(これには、街の景観を損ないかねない大手米資本系のスーパー(Wから始まる、例のアレ)を誘致する、ということ等も含まれ、実際にこれはメキシコシティ郊外のテオティワカンという古代遺跡の付近で起きているのである)。その手で、無数の先人達の営為の所産を次なる世代に受け渡すこともできる。歴史というのは、過去に起きたことだけでなく、今を生きる人間をも巻き込んだプロセスなのだろう。こう思うのも、(ちょっとだけややこしい話になるかもしれないが)このところ読み直しているアマルティア・センの「潜在能力」という概念が頭の中にあったからかもしれない。恐ろしく簡略化して言うと、センの言う「潜在能力」とは「選択の幅」を捉える概念である。センは、人間の諸行為の中でも「選択」というものに一層の重きを置いている(例えば、「飢餓」と「断食」というものは、結果的に栄養水準が低くなるという点では同じだが、選択という観点から見ると両者の差はとてつもなく大きい)。そういった選択の重要性は、街というものに見られる歴史の中でも確認できる。無数の「今」において幾度となく繰り返し「選択」されてきた、この街の歴史。勿論街というものを考えるに当たっては資本だったり政治だったりというファクターも無視し得ないが、それでも、このモレーリアの美しさを支えてきた、そして今尚支えている、「何か」が垣間見えた気がした。


歴史と、情緒と、美人で有名なノルテーニャ(北部の女性、の意)の街(三つ目は別にいらないかもしれないが笑)、モレーリアは、思わず「こういう街に住んだらどうなるのだろう」と考えたくなる、そんな街であった。

*1:ちなみにこのバスは、中心地にあるベジャス・アルテス宮殿やラテンアメリカタワー等の「見所」を通過するので、観光用としても使えるのではないかと思う。とは言え、ある程度土地勘のある人と一緒に回るのでなければ逆に分りづらいだろうが。